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べーつに特別なあれはねえなあ!
百歳なったって(笑)
1921年(大正10年)生まれ。通称うめお。二十歳のときに太平洋戦争が勃発し従軍。終戦までの約4年間のほとんどを横須賀の陸軍重砲兵連隊で過ごす。今では失われた昭和村のかつての暮らしぶりを身をもって知る世紀の生き証人。
- 世紀の生き証人 青木梅之助さん
- 1921年(大正10年)生まれ。通称うめお。二十歳のときに太平洋戦争が勃発し従軍。終戦までの約4年間のほとんどを横須賀の陸軍重砲兵連隊で過ごす。今では失われた昭和村のかつての暮らしぶりを身をもって知る世紀の生き証人。
百歳なったって(笑
うめおさん、百歳おめでとうございます!
- うめおさん
- いやあ、いやあ、どうも(笑)。あっはっは(笑)。
無事、百歳になられたご感想は?
- うめおさん
- べーつに特別なあれはねえなあ、百歳なったって。ふっふっふ(笑)。
いやあ、お元気そうでなによりです。3年前に初めてお会いしたときも、宅急便さんが玄関に来た時、スッと立っていかれたんで驚きました。足腰丈夫ですよねえ。
- うめおさん
- 軍隊で鍛えられたわい!通信兵だった。有線通信だから電話機と電話線4巻くれえ背負って駆け足だから、だいぶ重てえだ。
- うめおさん
- ここから宮下(三島町)まで、二里の峠越えて向こう三里あんだから五里。普通の人何時間かかっと思う?
五里って?
- うめおさん
- 一里が4kmだから20km。
峠ですもんねえ。見当つかないですけど半日とか?
- うめおさん
- うん、まあ、4、5時間かかっぺえ。そこ俺、2、3時間くれえで、たったったったって行ぎ行ぎしたんだもん。そのくれえ足腰丈夫だったんだ。軍隊で横須賀いっとき、馬堀の海岸、ずーっと海水浴場になってんだが、その浅瀬んとっから、猿島っちゅう海軍の島めがけて、約一里あったあ。4kmあったあ。そこ往復泳いだの。山ん中から俺は出たが、泳ぎは達者な方だった。
!?どこで泳げるようになったんですか?
- うめおさん
- ここ~(笑)。いいとこあったんだ。「おせんどう淵」って。大きな堰があって50mくれえ直線で泳がっちゃあだ。大人になってもあそこさ行って泳いだもんだ。おせんどうっては、あれえ、いろいろの神社にお参りに行くとかなんかあるっていうときに禊(みそぎ)をやったらしいんだ。古峰ヶ原だの伊勢参宮だの行ぐ前に、おせんどうで一週間くれえ水垢離(みずごり)とり行ったっちゅうの。おらたちより一時代も二時代も前の話だ。
うめおさんの一時代前って、すごい貴重な話ですよ(笑)。ところで、軍隊でそんなに鍛えられたのなら筋肉も引き締まって、帰ってきたときにはモテたんじゃないですか?「いい男が帰って来たなあ」って村で女の人たちに噂されていたのでは?
- うめおさん
- あっはっはっは(笑)。いやあ、あの頃はたいぜい(大勢)だったあ。女もなあ、結婚めえ(前)だから。だから、毎日のように「結婚だあ!」なんて話だったわや。みんな大急ぎで終戦当時のあれだったから。もう連日のように、今日はどこどこさ嫁だあ、花嫁くっぞお!なんて。
もうブームというか。
- うめおさん
- そうそう。戦後ブームで。ベビーブームとか。俺が結婚したのは昭和22年かなあ。何年だべなあ、あれ。忘れちゃったあ。あっはっは(笑)。そのかあちゃん(妻)なんのお、会ったことなかったから。
第一印象はいかがでした?
- うめおさん
-
はっはっは(笑)。うん、よかったわい。ふっふ(笑)。昔のことだけど。
あれ坂下の産婦人科のとこに勤めてて産婆の免許もってた。助産婦の。だから、もう昭和村じゅうから金山の方まで頼まって、車で送り迎えずっとやってたわい。あっときには一日に3つも4つも重なるんだっけやあ。自宅分娩でみんなうちでお産だから。ほーんと毎日大忙しだったわやあ。夜中でも腹痛くなっと電話くっから(笑)。うちの子どもがちいちゃいときなんのお、乳のみ時代は、かあちゃんお産で手間とってんべえ。なかなか産まれねえと子めら腹減らして泣くから。そうすっと俺、おんぶしてって、そばさ行って乳くれてもらったり(笑)。
空前のベビーブームを陰で支えていたんですねぇ(笑)。
ところで昭和村の良い所はどんな所だと思いますか?
- うめおさん
- なあ。いいとこなんて大したがさ(嵩)もあんめえが(笑)。 まあ、平和なことは確かにいいなあ。争いごともなんにもろくにねえから。それだけは大したもんだ。そういうことはやっぱり基本だな。争いごとがねえっちゅう。平和っちゅうことが。いつ時代になったってそれだけは変わんねえと思うな。
ありがとうございました。
今度、昭和村のホームページでうめおさんを紹介させていただきますから。
- うめおさん
- はっはっは(笑)。
うめおさんの百年の人生が本になりました!
歴春うぇぶ『奥会津昭和村 百年の昔語り 青木梅之助さんの聞き書きより』
【聞き手】須田雅子(昭和村宣伝部員) 直感に導かれ、2015年秋に東京から昭和村に移住。村の暮らしを日々満喫している。 |
昭和村宣伝部員制度とは
昭和村宣伝部員制度は、村民と行政が協働で「お隣さんの話」を通して、村の魅力をPRするために、原稿の執筆等を行う制度です。