「三笑窯すごいよ!一度見に行くといいよ」と元織姫の友人に勧められ、山の紅葉も深まってきた10月、村内の工房を訪ねました。焼締め陶の窯は、まるで古代の宇宙船のよう。それが炎と煙を生き物のように熱く吐き出している。横須賀から昭和村に通いながら作陶活動をする、菅野まりさんにお話を聞きました。

「三笑窯陶工房」 菅野まりさん
1947年生まれ。佐賀県有田で陶芸を学んだ後、独立し、神奈川県横須賀市で「三笑窯陶工房」を構える。1997年、昭和村に窖窯(あながま)を築き、二地域を行き来して作陶活動をしている。

焼締め陶の窯を作る土地を探して

――まりさんは、いくつで陶芸を始めたんですか?

まりさん

27歳です。佐賀県の有田で陶芸の勉強をして、その後、関東の地元に帰ってきて。何年ぐらいやってからかな。薪窯(まきがま)をやりたい、それも、釉薬をかけないで土だけで焼き上げる焼締め陶がやりたくなって、窯を作る場所を探していたんです。炎が出るので人家が近いと危ないし、危ないっていうか通報を受けるし(笑)。


昭和村に知り合いの知り合いがいた縁で見に来たんです。建設会社の社長さんが候補地を案内してくれたときに、畑小屋(はたごや)に寄ってくれたんですよ。

――大芦集落の奥の木地師の集落ですね。

まりさん

そうです。私ずっと前から、渡り歩く職人というのに興味があって、「木地師」の関係の本が結構好きで読んでいたんです。「畑小屋は木地師の集落ですよ」って聞いて「昭和村いいな」と思いました。そのときに、この赤坂山も通って、ここなら大丈夫そうだというので決めました。

――集落からも離れているし、良い場所が見つかりましたね。

まりさん

ここは葉タバコの畑だったんです。

――この建物は元々あったんですか?

まりさん

いや、なかったんです。建設会社の社長さんに、「とにかくお金がないから安くお願いします」って頼んだら、葉タバコを乾燥するハウスの鉄骨で建ててくださって。村ではもう葉タバコの栽培をやらなくなっていたから。窯の方も梁と柱だけ建ててもらって、屋根に杉板を張るのとかは私も上がってやりました。

(菅野まりさんの写真アルバムより)

――何でもやりますね。

まりさん

まあ、やればできるんじゃないかなあと思って。力の差っていうのはありますけど、男の人が1日でやることだって、まあ3日かけてやればできないことはない。

――子どもの頃からそんな感じでチャレンジャーだったんですか?

まりさん

そうでしょうねえ。お転婆で(笑)。

木地師の末裔 小椋又一さんとの出会い

――この窯、すごい迫力ですね。

まりさん

窯の形も結構いろいろ。信楽とか備前とか、焼締め陶をやっている所をまわって、自分の理想の窯はこんな形っていうのを決めました。


これは手前が窖窯(あながま)で後ろに一つ登り窯。登り窯っていうのは、階段状にいくつも部屋が繋がっているのをいうんですけど、その窯を一つくっつけた変則的な窖窯。

――窯を作るのにどれくらいかかったんですか?

まりさん

横須賀から通って6ヶ月ぐらいで出来たかな。横須賀の陶芸教室の人たちや友達関係が手伝ってくれて。昭和村でも役場の企画課の方がいろいろな人を紹介してくださった。神奈川から移住していた坂井二郎さん(故人)のお友達で、畑小屋の小椋又一さんとも知り合うことができました。

ありし日の小椋又一さん(2002年)(まりさんの写真アルバムより)

――私が引っ越してきたときには、又一さんはすでに亡くなられていましたが、すごく面白い方だったそうですね。

まりさん

私が興味を持っていた木地師さんの末裔でしたから、まずそれがありましたね。それと又さん自身の人間性!会って話した途端に好きになった。窯作りも又さんと二郎さんにアルバイトで手伝ってもらって。二人はいいコンビでしたよ。面白かった。


朝来てね、お茶飲んで、10時にお茶飲んで、お昼にお茶飲んで、3時にお茶飲みで、帰る前にお茶でしょう。お茶飲みながら、又さんの話いろいろ聞いてたの。木地師の話もあれば、熊撃ちの話もあって、何から何まで話がとにかく面白いんですよ。だから、昭和村に来るとまず畑小屋に行って、「又さん、来ましたよー」って。「おー!あがれー」なんて窓から顔出して(笑)。

写真アルバムで窯作りの様子を見せてくれるまりさん

昭和村に通って四半世紀

――外が寒くても窯の近くはすごくあったかい。なんだか火が原始的ですね。

まりさん

窯は火を入れてないときは静かに立っていますけど、いったん薪をくべだすと本当に生き物みたい。その中に臓物じゃないですけど、土を…、手作りの作品をたくさん詰め込んで。


窯の中の温度が1000度を超えてくると、薪を入れた途端にバーッと火がつくんですよ。それで窯の中に炎の先をワーッと伸ばしていくんです。脇の色見(いろみ)から噴き出す炎が手前から徐々に奥の窯まで行って、1100度を超すと今度は後ろの窯をまわって、そこから煙道に行って煙突まで上がって。こっちの薪がだんだん燃え尽きようとすると、スーッと引いていくんです。

――呼吸みたい!

まりさん

そうなの!薪を入れるとワーッと吐き出して、その薪が燃え尽きる頃にはフーッと。夜やっているとその音が呼吸みたいに聴こえますよ。生きているみたい。面白いですよ!どう考えたって面白い。

――織姫さんとか昭和村の人たちも結構出入りしているんですね。

まりさん

昭和村でも陶芸教室とかやってきたので、お手伝いに来てくださる方がたくさんいるんです。100時間ぐらいかかるから1人じゃ焚けないでしょう。大規模にやっている窯だと、1人8時間ぐらいずつ交代でやるんですけど、ここはお祭り騒ぎですからね。


夜通し交代で薪をくべるんですけど、初めの頃はみんなあまり経験なかったから、私、眠れなくて大変だった。「悪いけど寝ます。何かあったら起こして」って言うとすぐ起こされる(笑)。でも何回かやっているうちに、結局カロリーの総量だっていうのがわかった。だから温度変化はあまり気にかけないで、ただただ薪を入れ続ける。やっぱりねえ、自分が当番のときに下がるとみんな嫌なの。だから心配になって起こしに来るんだけど、いいから、いいからって。

――昭和村にはよく来ているんですか?

まりさん

この25年ずっと毎月来ています。昭和村は季節、季節がいい。ここのところは雪が楽しみですよ。雪の景色が真っ白でしょう。それがすごく清冽な感じがしていいですね。

冬は除雪(写真提供:三笑窯陶工房)
水は代官清水で汲んでくる。(写真提供:三笑窯陶工房)

――昭和村ってどんな村だと思いますか?

まりさん

昭和40年ぐらいまでは、ほとんど冬は閉ざされていたとか。それがかえって、ここの人たちの古い暮らしとか習慣とかを残してくれた。便利になるっていうのは、良いことなのか悪いことなのか。ある程度、超えると良くないなと思いますね。

まりさんの好きな昭和村スポット

畑小屋(はたごや)

高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)の妃、紅梅御前と付き人の桜木姫が身を隠していたという伝説で知られる「御前ヶ岳」の麓にある木地師の集落跡。2017年に最後の住人が去り、現在は住む人がいない。「御前ヶ岳」登山口に小椋又一さんお手製の看板が立てかけられている。

まりさん

又一さんが住んでいたから、畑小屋、大好きですよ。今でも行きます。又一さんの家の周りがすすき野原になっていましたね。いろんなことを感じました。

「三笑窯 陶工房」 https://www.sanshogama.com/

【聞き手】須田雅子(昭和村宣伝部員)
直感に導かれ、2015年秋に東京から昭和村に移住。村の暮らしを日々満喫している。
著書に『奥会津昭和村 百年の昔語り 青木梅之助さんの聞き書きより』(歴史春秋社 2021)。

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