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「村に世間に恩返し」への思い
昭和村の活性化に奮闘した羽染藤吉さん

「昭和村に移住してきた」と言えば、女性はまず「織姫か?」と聞かれます。「織姫」というのは、今年30周年を迎えた「からむし織体験生事業」(以下、「織姫事業」)で昭和村にやってきた女性たちの呼称です。昭和村では多くの移住者が自然体で村の人たちに溶け込んでいます。私を含め、後からやってきた移住者が居心地よく村で暮らせるのも、村の人たちと織姫さんたちが、長年にわたりあたたかな信頼関係を築いてきた歴史があるからだと思います。「織姫事業」の仕掛人、羽染藤吉さんにお話を伺いました。

「織姫事業」の仕掛人 羽染藤吉さん
1942年、東京生まれ、昭和村育ち。2001年に昭和村役場を退職後、奥会津昭和村振興公社勤務を経て、昭和村の物産を取り扱う「森商事」を起業。役場の企画課時代には、「からむし織体験生事業」、「奥会津 昭和の森キャンプ場」、「御前ヶ岳登山」、「水芭蕉としらかばの杜」など、数々のプロジェクトの立ち上げに尽力した。

とにかく自分で稼ぐしかない

――以前、加奈子さん(娘)に楽しいお話を聞かせていただきました。加奈子さんがUターンしてきてくれてよかったですね。

藤吉さん

近くに娘がいるっていうのは安心感があるな。

――藤吉さんはどんな幼少期を過ごされたんですか?

藤吉さん

俺は、生まれは東京都世田谷区太子堂だ。

――えー!? 大都会じゃないですか。

藤吉さん

俺の親父は商売人だったの。お茶屋だった。昭和村じゅう、自転車にお茶箱積んで売りあるってた。あの頃、自転車なんか珍しかった。東京で一旗揚げようと思って行ったんだが、戦時中の食糧難で、ひでえ目に遭ったんだよな。俺が3つのとき、疎開で帰ってきて、俺は学校出る前は大芦で過ごした。

――藤吉さんは生粋の両原の人だと思っていました。

藤吉さん

東京で親父が肺結核になっちゃって、脊髄カリエスかな。うちが貧しいから、俺は大芦のおふくろの実家に預けられたの。「火の用心」書く頃(数えで6才)、両原に来て、喰丸小学校に入った。

――お父さんが病気では、お母さんは大変でしたね。

藤吉さん

おふくろは少しばかりの畑で野菜作って、夜は針仕事やったりして。裁ち板(たちばん)広げて朝まで、一晩中やってた。それで、幼少の俺たちを育ててくれたわけだ。冬は家族6人でこたつへ足突っ込んで寝てて、あばら家だったから、朝起きっと隙間から吹き込んだ雪が額(ひたい)にのってて、ひゃっこくて(冷たくて)目が覚めたことが何回かあったな。

親父の結核の薬が、ストレプトマイシンだとかな。保険なんかなかったから、高い金で買わないといけない。おふくろの針仕事では間に合わなくて、田も畑も家の財産は売っちゃってた。

――生活、厳しかったんですね。

藤吉さん

親の財布見たって空っぽだ。薬も買わんなんねえ(買わないといけない)わけだし。とにかく自分で稼ぐしかねえ。夜明け頃、チリンチリンといわきからサンマ売りが来てたのな。木の箱1箱買って。買うのは儲けるつもりで買った。稼がんなんねえ(稼がないといけない)から。朝、それ売ってから、弁当作って学校行った。弁当だっておかずねえから、ごはんに削り粉かけたり、醤油パーっとかけたり、梅漬け入れたりして。あの頃、川口高校の昭和分校ってあったのな。定時制で週4日。俺は親に「学費出してください」なんて言った試しがねえ。言うようねかった(言うわけにはいかなかった)。アルバイトして学費と自分の小遣いを捻出して。まあ、それだって、苦しいと思わなかった。これはヒストリーだな。

――加奈子さんの話から遡って、まさにファミリーヒストリ―!

織姫事業の夜明け前

――加奈子さんが、「父ちゃんは役場の企画課に入ったとき、水を得た魚のようになった」って言っていました。織姫事業の立ち上げの頃のこと聞かせてください。

藤吉さん

俺が企画課に移ったのが平成元年(1989年)だから、その前、今から35、6年前に産業課にいたったのな。その頃、聞いた話なんだが、大芦の老人が「おい、からむしだけはなくさないでくろよー」って、家の人に言ったっちゅうの。たしか五十嵐初喜さんのうちの話だったな。「これは大事なことだなあ」と思って頭から離れなかった。


仕事で都会のデパートの物産展だとかに、からむしのPRで行っても、売れるのは小物ぐらいで、高い反物は売れない。お客さんに「からむしってどんな虫か見せてくださる?」とか、「昭和村っていうのは、昭和になって発見されたの?」なんて言われてな。悔しくて眠れなかったよな。これは何かアクション起こさないと、からむしはなくなってしまうって。それがもう頭から離れねえの。役場で夕方、「総合企画会議」を開いて幾日も集まって話し合った。そのときのメンバーには、今の舟木幸一村長もおられたなあ。何年かした頃に、新聞でどっかの農業体験の記事が出てたのな。それがヒントになって、織姫10人募集して、からむし焼きの5月から、糸つむいで織って3月まで、村に住んで体験してもらったらどうかって。

――一大プロジェクトの幕開けですね!

藤吉さん

県内の新聞等に「からむし織体験生」の募集記事を出したのはいいけど、ほとんど反応がねえ。これは失敗かなあと思ってた。ところが、ある全国紙の福島支局の記者が来て相談したら、全国版の朝刊に載せてもらえることになった。2、3日後、募集記事が出た朝から役場中の電話が鳴りっぱなし!問い合わせが全部で260件くらいあった。急遽、臨時議会開いて補正予算とってもらって。あの頃、村の財政厳しかったからなあ。なんとか応援とりつけて。俺、辞表まで書いて持ってたのよ。応募がなければ辞めるしかねえって。

――まるで「プロジェクトX」の世界!

藤吉さん

10人募集のところに履歴書が64通も来た。書類審査通った18人に村に来てもらって、スクールバスで村内観光っちゅうかな、村を見てもらってから面接した。面接用のチェックリストも急遽作ってなあ。至難の業だった、あんときはなあ。

――最近の織姫さんは、一年目は合宿所で共同生活をしていますが、最初は違ったそうですね。

藤吉さん

最初はホームステイだった。昭和村には10集落あるから、各集落に1人ずつ入ってもらうべって。ホームステイ先、探すに本当苦労したなあ。役場から帰ってから、「今夜はどこさ行ぐべえ」って。あの頃、携帯も何にもねえから、いきなり訪ねて行ってな。夕方行ったりすると、お茶出してくれっべえ。そんとき分かったんだが、お茶飲むと、俺、夜、眠らんなくなんだよ。「お茶でなくて酒にしてくんつぇえ」なんちゅうわけいがねえ(笑)。何軒かあるって(訪ねて)、家さ帰って夕飯食べて寝る頃は、もうくたくたで。お茶飲んでっから眠らんなくて。それでも、やることやんねえなんねえしな。

――それでは日中、寝不足で大変でしたね。

藤吉さん

うん。でも、そのとき、張り切ってたからなあ。織姫10人は、最年長が35歳、最年少は20歳で15も開きがあったんだが、みんな、きょうだいとおんなじ。第1回のオリエンテーションで、「昭和村においでいただいて、ありがとうございます」と礼を言って、まず第一番に頼んだことは、「昭和村っていうのは山の中だから、東京の人なんかが来たりすると、びっくりしてたまげちまう。この村で、とにかくやってもらいたいことは挨拶だ。これだけは絶対やってくろ」って。


織姫さんたち、やってくれたなあ。村の人、畑にいても、「こんにちはー!」ってな。それが村の人たちに、よかっただなあ。「東京の人っちゅうのは、ぶつかっても声もかけねえっていう人ばかりだと思ってたが、なんと、挨拶がいい!たいしたもんだ」って。

――織姫さんたちは、村の人たちがそれまで持っていた「からむし」のイメージを一新したそうですね。

藤吉さん

村の人たちにプライド持ってもらえるように、からむしについての意識改革やんねえと、本当にからむし作る人なくなっちまう。織姫さんたちは、選りすぐりの都会の女の人たちだから、すばらしい感性持ってて、「からむしでこういうものもできんだよ」っていう手本を見せてくれると思った。みんな、よくやってくれた。問題も何もなかったしなあ。良識ある彼女たち。

上司らと口論し、地区の人たちに頭を下げた日々

――企画課ではほかにどんなことをされたんですか?

藤吉さん

「昭和の森キャンプ場」は、バーベキュー設備とかバンガロー造るって事業だったんだけど、大芦の共有地借りるのにも随分通ったな。あれ、造っときには、上司や関係者と口論した。あそこ水も何にもねえんだよな。一番心配だったのがトイレ。上司は「ボットン便所でいい」っちゅうんだが、「これからの世の中にそれでは駄目だ!」って。月からでも火星からでも、なんとかして水引っ張ってこねえと。大芦の役員の方々に集まってもらって、説明会やったの。大芦も水が足んねえんだよ。財政的にも大変だったんだけど、水がねえとせっかく造ったものが駄目になっちまうって力説した。機会あるごとに大芦の人たちに頭下げてお願いしてまわった。それで、なんとか大芦から水を分けてもらって引っ張って、トイレを水洗にすることができた。この前、秋に行ったら、昭和の森にテントいっぱいで。いやあ、よかったなあと思って。トイレは大事。トイレが汚かったらお客様来ねえよ。

「奥会津 昭和の森キャンプ場」(写真提供:一般社団法人昭和村観光協会)

――そうですよねえ。

藤吉さん

大芦の奥の畑小屋の御前ヶ岳。あれも有名な山なんだよな。高さが1,234メーター。あの山もなんとかしてえと思って、若松の博物館だとかに聞いたりして、歴史書を探ってみたの。そしたら、都落ちした高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)を追った妃の紅梅御前(こうばいごぜん)と付き人の桜木姫が住んでたっていう伝説をつかんだ。あそこに看板あっべ。「畑小屋の村長さん」って呼ばれてた小椋又一さん、もう亡くなったけど、あの人と御前ヶ岳登山を実現させたんだ。第1回目やったときには、畑小屋から山神平まで、車がずらーっと並んだ。「大芦さつき会」の女性たちが、登山を終えた人たちにおいしい山菜汁をふるまったりして、登山者の人たちも喜んでくれてなあ。

「御前ヶ岳登山」(写真提供:一般社団法人昭和村観光協会)

――御前ヶ岳の山開きの日(5月の終わり頃)には、「昭和温泉しらかば荘」もすぐ予約が埋まっちゃうって、加奈子さんが言っていました。藤吉さんの役場時代の奮闘が、30年経った今も、昭和村を活気づけているんですね。

藤吉さん

村のために、世間のために、何かしら残るようなことをしたい、恩返ししたいと思ってやってきたからなあ。税金で給料いただいてる公務員としては、職業柄、当然のことをやったまでだ。こういうことは一人でできることではないからな。スムーズに事業ができたのも、村の人たちをはじめ、庁内、関係機関等の理解と協力があったからこそだ!本当に感謝している。

藤吉さんのオススメ昭和村スポット

「水芭蕉としらかばの杜」

(写真提供:一般社団法人昭和村観光協会)

国道401号「博士トンネル」の昭和村側出入口の近くにある水芭蕉の群生地。水芭蕉の見頃は4月下旬~5月上旬。

藤吉さん

ここも役場の企画課にいた頃に整備した。水芭蕉の群生地と、そのこっち側のしらかばの森に遊歩道を設置して、散策できるようにした。博士トンネルが開通して、あの辺りが村の玄関口になったな。

「水芭蕉としらかばの杜」https://showakanko.or.jp/see/shirakabanomori/

【聞き手】須田雅子(昭和村宣伝部員)
直感に導かれ、2015年秋に東京から昭和村に移住。村の暮らしを日々満喫している。
著書に『奥会津昭和村 百年の昔語り 青木梅之助さんの聞き書きより』(歴史春秋社 2021)。

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